台湾元少年工ら絆の来日 戦時「海軍工廠」で労働

台湾元少年工ら絆の来日 戦時「海軍工廠」で労働
2015年05月15日

 ◇呉に40人「第二の古里」参拝や交流

 太平洋戦争末期に国内各地の軍需工場「海軍工廠こうしょう」で働いた台湾人元少年工ら約40人が来日し、14日、呉市内で日本人の元工員らと交流した。東日本大震災で多大な支援をした親日の台湾。とりわけ元少年工らは日本を「第二の古里」と呼ぶ。戦後70年がたち、久々に来日した人も多く、日本側関係者と戦没者を慰霊して平和を願い、「台湾と日本、いつまでも手を携えて」と誓い合った。(吉田誠一)

 台湾からの少年工は1943年5月以降、延べ8400人余りが神奈川県の高座海軍工廠(座間、海老名両市)に集められ、戦闘機生産に従事。名古屋市や群馬県などに派遣された人もいた。県内では呉市の「広第11海軍航空廠」で約200人が働いたとされる。

 今回は、同航空廠で働いた台北市の男性(87)を含む元少年工とその家族らが、同窓会「台湾高座会」の活動として来日した。

 一行はこの日、同航空廠の日本人元工員らと、呉市の船津神社内にある殉職者らがまつられた工僚神社や、旧海軍墓地に参拝。ともに手を合わせ、冥福を祈った。

 このあと両者は呉市内のホテルで交流。冒頭、全員で君が代を斉唱し、戦没者に黙とうした。来日の世話をした広島市中区の多山順一さん(64)の進行で、相原謙次・呉市相談役が「ものづくりのまち呉の戦後の発展は、皆さん方諸先輩の礎があったから。今後も固い絆を」と呼びかけた。

 元少年工たちは、それぞれ当時を懐かしんだ。台北市の男性は43年に16歳で来日し、高座での訓練後、同航空廠で約半年間、攻撃機「一式陸攻」などを生産。「台湾に比べ、とにかく呉は寒かった。食料はいつも足りなかったが、日本人と分け隔てなく、みんなで朝から晩まで懸命に働いた。活気があった」と振り返った。

 元少年工たちは、日本が統治していた時代に「日本人」として少年期を過ごした。台北市の宋燈山さん(87)は「少年工の募集にクラスの半分くらいが手を上げたが、トップの成績でないと選抜試験に通らなかった。日本で『お国のために』と誇りを持って働いた」と語る。

 日台交流に努める台湾高座会の総会長・李雪峰さん(88)は「当時は苦しい生活だったが、同じ『日本人』として支え合った。今後も助け合えたら」と願っていた。

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